■■■甘木(あまぎ)の地名について■■■

甘木の地名は、甘木安長(あまぎやすなが)が建立した甘木山安長寺(かんぼくざんあんちょうじ)の山号「甘木山」によると言われています。(安長寺縁起)
 甘木安長は醍醐天皇の荘園管理のため南都からきた人物とされていますが、天平18年の法隆寺資財帳には法隆寺の荘園が全国46か所記載されており、これらの荘園は、国司(地方長官)の管轄外であったことから、荘園を所有する権門家や社寺は、これを統轄する管理者を地方に派遣する必要がありました。荘園管理のため地方に赴いた人々が心がけたことは、赴任した荘園地の人心をおさめることでした。そのために神社仏閣を創建する習わしがあったようです。


さて、安長の父安道は、子の安長が幼い頃天然痘を患い、これを治すため平素から信仰していた生駒郡矢田の金剛山寺に祈って、その霊験により治癒することができました。安長は、領地であった筑前夜須郡に移り住み、幼時の霊護に報いたいと考え、金剛山寺から地蔵尊を拝請し、法相宗の大寺院と門前町を創建したのです。

こうして甘木の地名と甘木山安長寺の山号は、この甘木遠江守安長(あまぎとうとみのかみやすなが)の名に由来することになりました。なお、創建時は「法相宗」でしたが、正安2年(1300)に禅宗(臨済宗東福寺派)に改宗しています。

したがって、創建の年代は矢田地蔵尊創作の弘仁7年(816)から、改宗した正安2年(1300)の間と考えられており、これをもっと絞り込むと、本堂の掲額「大願王」の揮毫者が寺伝のように唐僧柏岩とすれば、唐の滅亡(延喜7年・907)以前との推定が成り立ちます。ご本尊は奈良時代満慶和尚の手になる「延命地蔵菩薩」で、子授け・安産・育児・健康・操業・学業・受験など子供の成長に関する一切の守り本尊として崇敬されています。





■■■甘木山安長寺 延命地蔵尊ばたばた初市■■■

安長寺では1月4日と5日にばたばた市(初市)が開かれ、豆太鼓バタバタ(郷土玩具)を求める参詣者で賑わっています。
豆太鼓バタバタ は、もともと疱瘡よけのおまじないですが、産室に置くと胎児の発育がよく、生まれる子供の目鼻立ち、四肢に至るまで均整がとれると言われ、床の間に飾ると、その家に幸運が訪れると言われています。描かれている童子は安長寺のご本尊である「延命地蔵菩薩」の申し子と言われています。
男の子と女の子のペアで手に入れるのが普通です




■■■男樟と女樟■■■

祇園の大樟と呼ばれる須賀神社境内にある大樟は、若葉の色が青。一方安長寺の大樟は若葉が赤色。このことから、祇園の大樟を男樟。安長寺の大樟を女樟として、恋人同士や夫婦にみたてています。この2本、夜はコーズ(ふくろう)を介して仲むつまじく語り明かしているのです。
「祇園の大樟」
県指定天然記念物
昭和32年8月13日指定
胸高周囲13.70m
樹高28.00m
「安長寺の大樟」
県指定天然記念物
昭和32年8月13日指定
胸高周囲11.35m
樹高31.50m



その昔、豊後玖珠の大樟が切り倒されたとき、実が散らばって芽を吹いて育った樟に、安長寺境内と須賀神社境内の大樟があり、ほかに大宰府神苑や朝倉の隠家(かくれが)の森の大樟もこのときの実が芽を吹き、育ったものとして伝えられています。玖珠の大樟が東の方向に倒れて筑後川をせき止めましたが、その後水が引いた土地は、ひいた(日田)と呼ばれ、水に葉が浮いた所が浮羽、鳥の巣が落ちた所が鳥栖、海辺の砂に葉形がたくさんついた所が博多と言われるようになったとか・・・。相当に大きい樟であったことがうかがえます。切り倒された跡は、現在大分県玖珠町に「切株山」として今も残っています。


Copyright All Right Reserved amagiasakura.net 2001