■衣
 邪馬台国の既述がある「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)には、当時の人々の様子も書かれています。
 この中で当時の日本人は、男性が顔や体にいれずみをし、幅広の布を巻き付けて着ており、女性は貫頭衣という頭を通す穴が空いている布を身につけていました。いれずみには地域や身分によって違いがあったようです。

■食
 弥生時代は稲作が始まる時代ですが、縄文時代以来の狩猟採集をやめたわけではありませんでした。当時は米づくりが始まって既に何百年か経っていますので、生産量もかなり向上していたと思われます。しかし、千数百年後の江戸時代でも、収穫量は天候に左右されているように、安定して米が確保できる状況ではありませんせんでした。したがって、やはりお米は貴重な保存食であり、木の実や魚といった物が主食だったのでしょう。
 この遺跡でも、住居跡の中から炭化した米が出土しています。また、環濠からはドングリのなる樹木の葉が大量に出土しており、集落周辺に食料となる木が生えていたことがわかりました。さらに、他の遺跡では米以外にもムギやアズキ、その他マメ類も食べていたことが知られています。

■住
 当時の人は、公園内に復元した竪穴住居のような建物に住んでいました。この遺跡では約300軒の住居跡が見つかりましたが、同時期に建っていたのは、20〜30軒だと考えられます。
 住居の中には炉の跡が残っていましたが、焼けた土の様子などから大きな火は使っておらず、料理などは住居の外で行っていたと思われます。

■墓
 「魏志倭人伝」には、人が死ぬと10日間程喪に服し、その間肉は食べないとあります。また、土を盛って墓をつくり、埋葬し終わると水浴してケガレを払っていたとも書かれています。
 この遺跡からは、子供用のお墓が数基見つかりましたが、大規模な墓地は見つかっていません。しかし、この遺跡の東にある台地上には、弥生時代中期から既に墓地が形成され、大規模な甕棺(かめかん)墓地群などが見つかっています。また、弥生時代後期から古墳時代にかけての墓地(箱式石棺墓や方形周溝墓など)も知られています。
 つまり、平塚川添遺跡に住んでいた人々は、この集落を見下ろす台地上に埋葬されていったのでしょう。


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