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◎邪馬台国ってなに?
「女王卑弥呼が治めていた国で、どこにあったかは、九州説・近畿説などいろいろあって・・・」
中国の歴史書「三国志」(さんごくし)に魏(ぎ)という国のことが書かれ、その最後に当時の日本の様子も書いてあります。この部分をとくに「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)と呼んでいて、ここに邪馬台国が出てきます。
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◎いつ頃のはなし?
中国が魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれていた時代で、とくに魏は西暦220〜265年に存在した国で、倭人伝には卑弥呼が、魏に使いを数回送っていることが書いてあり、3世紀頃のことになります。当時の日本は弥生時代で、中国大陸や朝鮮半島などからいろんな文化(稲作や青銅器など)が入ってきて、それまでの縄文時代から大きく変化した時代です。 |
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◎どんな国なの?
倭人伝に書かれた日本の様子は、男は顔や体に入れ墨をし、幅広の布を巻き付けたように着ていて、女は貫頭衣(かんとうい)という頭を通す穴があるだけの布切れを着ていました。また、生活の様子として、海に潜って魚介類を捕っている、ということも描かれています。
大人(だいじん)・下戸(げと)・奴婢(ぬひ)(生口)(せいこう)などの表現から、すでに階層分化(かいそうぶんか)が進んでおり、支配する者とされる者が分かれています。女王卑弥呼もそういう支配者層から選ばれたのではないでしょうか。卑弥呼の様子は、侍女(じじょ)千人が任え、年をとっていたので弟がまつりごとを補佐していたとか、ほとんど人前には姿を見せなかったなどの記述があります。
卑弥呼のいるところは、宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)を設け、兵が守衛していると書かれていますので、平塚川添遺跡のような環濠に囲まれていたのでしょう。また、その女王のいる邪馬台国の戸数は実に7万余戸とされ、数字には誇張(こちょう)が含まれているでしょうが、倭人伝に出てくる他の国々に比べ、ずば抜けて多い数字になっています。
卑弥呼はまた、魏にたびたび使いを送っています。この時、魏の王から「親魏倭王」と彫られた金印と百枚の鏡を与えられています。卑弥呼は自分の権威を高めるために、この魏王の権威をかりていたと思われ、この鏡が今のところ三角縁神獣鏡ではないかと考えられていることから、この鏡の分布が、邪馬台国の勢力範囲と関係している研究者もいます。
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◎どこにあったの?
一般に邪馬台国を扱った話になと、必ずといってよいほど、どこにあったのかが問題となります。これにはそれこそ数えきれないほどの説があり、どれが正しいということはできませんが、私たちが住むこの地「甘木・朝倉」こぞが邪馬台国であったと信じています。{安本美典氏説}
では、なぜその位置がこれほど問題になるのでしょうか。弥生時代になると、それまでの小さな集落は次第にいくつかの国々にまとまっていきます。そして古墳時代になると近畿地方の大和政権を中心に一つの国となります。邪馬台国はこの統一国家が生まれる途中に出てくる国で、その位置は、国の成り立ちや階層分化の過程を知る上で重要なのです。
倭人伝に出てくる国の中でその位置がわかっているのは、対馬(ついま)国/対馬、一支(いき)国/壱岐、末廬(まつら)国/唐津市、伊都(いと)国/前原市、奴(な)国/春日市などで、朝鮮半島から北部九州までは辿(たど)ることができます。そこから先は諸説あり九州説と畿内説を例にとれば、まず前者の場合、3世紀頃には、九州に邪馬台国を中心とする30国余りの連合国家と、それに敵対する狗奴(くな)国が存在していたということになります。それが次の時期には、畿内に大和政権が誕生していることになります。これがどのような推移によるかを考えなければなりません。また、後者の場合、30余りの国々が西日本一帯にあったことになり、3世紀頃にすでに西日本を邪馬台国が統括(とうかつ)していることになります。
これがのちの大和政権の前身として、統一国家の基盤が邪馬台国の時期に成立していたと考えることもできます。このように、邪馬台国の位置を探すのは、その後の大和政権とのつながりを考えておかなければならないので、ただ単に宝物の場所を探すということと、全く違う意味合いがあります。そんなことを念頭に置きながら、自分なりの邪馬台国を探してみてはいかがですか。
「わが地こそ邪馬台国なり」
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この甘木・朝倉は、日本国に関する最古の記録とされている中国の史書(三国志)の中の「魏志倭人伝」に書かれている「邪馬台国」があったといわれています。
邪馬台国は、ヤマトとも読まれ、大和(やまと)朝廷となり、日本国家の源(ルーツ)となった国なのです。そして、その国の女王が「卑弥呼」であったといわれています。 |
邪馬台国東遷説/昔、民族が移動する場合には、その地名を持って移住しました。奈良大和地方と甘木・朝倉地方との主要な地名が一致し、地名配置も極めて類似点があることから、邪馬台国は甘木・朝倉地方に存在し、それが東遷し、大和朝廷の母体となったと考えられます。 |
古事記・日本書紀や考古学サイドの見地に加えて、数理統計的手法を駆使されて、天照大御神=卑弥呼、高天原=邪馬台国であり、その邪馬台国は甘木朝倉地方に存在し、神武天皇に率いられて東遷し、大和朝廷になったという「邪馬台国東遷説」が発表されました。
平成4年、福岡県甘木市大字平塚の工業団地造成中に発掘された「多重環濠集落」は、弥生時代後期まさに邪馬台国時代の遺跡で国史跡「平塚川添遺跡公園」として保存され、佐賀県吉野ヶ里遺跡・長崎県壱岐原の辻遺跡とともに「三姉妹遺跡」として交流が図られています。 |
甘木市観光協会では、「親魏倭王」の印を発売し、邪馬台国甘木朝倉説を広く日本全国にアピールし、水と緑・土の香りがする古里の良さを知って戴きたいと思っております。稲作文化が定着した弥生中期、瑞穂の国・日本発祥の地「卑弥呼の里あまぎ」因み、稲穂をあしらった「卑弥呼の里の福みのり」の下げ札をつけて、500個限定にて販売しております。その他、卑弥呼の里オリジナルとして、銅鏡デザインを木製品の枠に織物でイメージし、アクリル封入技術により作成した物(大小2種類)、また、勾玉ストラップ(オレンジ・グリーンの2種類)も併せて販売いたしております。上記の「親魏倭王の印」をクリックして下さい。
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第三セクター甘木鉄道甘木駅前にある石碑
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