林流抱え大筒  
腹切り岩(はらきりいわ)  
1.林流抱え大筒
明治9年10月熊本神風連の乱に呼応して挙兵した秋月党は、豊津で友軍と合流し、萩へ向かおうとしましたが、官軍に破れ秋月に退却します。当時の秋月党砲術隊長 中野五郎三郎は、隊長の今村百八郎などとともに最後まで奮戦しますが、傷つき、縄田家(現嘉穂町)にかくまわれました。そのお礼として持っていた大筒を贈り、林流砲術を伝授しました。以後、林流抱え大筒は縄田家において我々受け継がれて、その後昭和46年伝承者の縄田勇造氏を迎えて秋月に保存会が発足しました。

文政12年(1829)の「武芸軸帳」には秋月藩の武芸諸流が記されていますが、砲術は磯流・高野流・林流・久佐流・河野流・吉田流・陽流・若松流・板倉流があったとされています。しかし、現在残っているのはこの林流のみです。
島原の乱でも使用されていたというこの大筒は、長さ1m、重さ30kg、100匁玉、あるいは、棒火矢を使用する火縄銃。一人で抱えて発射することのできる最大の銃砲、言い換えれば大砲に限りなく近い鉄砲と言えます。実戦では城門城壁の破棄焼討ちに威力を発揮し、山野にとどろく豪壮な響きによって人馬を驚かしました。
1.腹切り岩(はらきりいわ)
天正15年(1587)3月、豊臣秀吉は九州平定の途につきます。(第1・2軍は1月に出陣)秋月種実(たねざね)は島津義久と同盟し、秀吉の軍を迎え撃ちますが、北九州随一の堅城を誇った岩石城(がんじゃくじょう)をわずか1日の戦いで攻め落とされて降伏します。それまで筑前・筑後・豊前の3か国11郡36万石余を誇っていた旧領を失い、わずかにその10分の1以下の日向財部(たからべ)(高鍋)3万石に移されました。

これより先、種実の重臣の一人、恵利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)は、秀吉勢は強大で秋月勢の到底抗しきれるものでないことを悟り、種実に和を結ぶことを進言しますが、理解を得られず、かえって怒りを買い、ついには自刃するという悲劇に終わりました。(天正15年(1587)3月14日 享年38歳)

秋月・鳴門観音の50mほど手前、小道の右手の路傍に3個の巨岩があります。一番北側の岩の上で切腹したと伝えられ、通称”はらきりいわ”と呼ばれています。
南側から「辷り岩」「兜岩」「腹切り岩」の順に並んでいます。一番大きな腹切り岩は地上約1.5mで、畳3〜4枚は敷ける広さがあります。
近くにある「鳴渉観音」は、黒田長興が秋月入封に当たり、その忠節に感じ入って建てたものです。また、殉節碑が昭和11年5月に腸堯ゆかりの人々によって建立されています。








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