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甘木は邪馬台国東遷説の震源地
明治43年東京大学教授で東洋史学者の白鳥庫吉は、「魏志倭人伝」の卑弥呼に関する記述と「古事記」「日本書紀」の天照大御神の記述が酷似しており、天照大御神は卑弥呼を反映、高天の原は邪馬台国を反映しているとの考えを示し、この考え方は後に哲学者の和辻哲郎にも受け継がれ、邪馬台国東遷説へと発展しました。「古事記」「日本書紀」の神話と「魏志倭人伝」との間の相関関係を主張する同様の考え方は、「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平など多数の研究者に支持され、邪馬台国九州説を補強することとなりましたが、最も注目すべきは、昭和42年に産能大学教授安本美典文学博士が「魏志倭人伝」のほか、古事記・日本書紀、考古学サイドの見地に加えて、数理統計的手法を駆使して打ち出した邪馬台国甘木朝倉説です。

彼はその著「最新・邪馬台国への道」で次のように展開しています。
@「魏志倭人伝」の記する事実A「古事記」「日本書紀」の神話、伝承の伝えるところB考古学的事実から科学的に導かれる邪馬台国甘木説・・・
天照大御神=卑弥呼 高天の原=邪馬台国
邪馬台国=甘木 邪馬台国東遷説=大和朝廷
邪馬台国と地名
筑後川のたまものとして3世紀に勃興した邪馬台国は、この世紀の終わりに倭王神武にひきいられて東遷し、大和朝廷になった・・・
「古事記」「日本書記」は、大和朝廷が九州から起きたことを説いている。すなわち、大和朝廷の祖先は九州にあり、後に神武天皇といわれる人の時代に東に移り、大和朝廷が創建されたと伝えている。
○夜須郡を中心とした地名と大和郷のまわりの地名が一致する。
○「魏志倭人伝」の国名と「延喜式」の郡名との統計的な合致度は、九州地方が最も大きく、そこから離れるにつれ小さくなる傾向が認められる。
○「高天の原」と「天照大御神」「高天の原=邪馬台国」
・「古事記」神話にあらわれる地名の統計では、九州地方が最も多い。
・「葦原の中国=山陰地方」とすれば「高天の原=邪馬台国」が導き出される。
・北九州に「天の安川」を思わせる「夜須郡」(小石原川)が流れており、その「夜須川」のほとりから大環濠集落の平塚川添遺跡が発見された。
・九州には「天の安の川」と関係があると思われる地名として福岡県朝倉郡夜須町がる。「高天の原」を意味する「天」は、夜須郡のすぐ近くの甘木市の甘(あま)に姿をとどめている可能性が大きい。甘木市には安川と呼ばれる地域もある。
・夜須郡や甘木市の地理的条件は「古事記」に記されている高天の原の地理的条件とかなりよく一致する。
・甘木市の高木は「古事記」神話の高木の神(高御産巣日の神)と関係がある。
・「高天の原」は「高い天の原」という意味かもしれないし、「高木」「甘木」など「タカ」「アマ」と関係ある地名が昔からあって、その付近一帯をさしたのかもしれない。
・甘木市を流れる筑後川支流の小石原川の上流一帯は、現在も安川と呼ばれている。
・甘木市には「日本書紀」に天照大御神の田であったと記されている「天の長田」を思わせる「長田」「下長田」「長田楓」などの地名もある。
・「高天の原」の地名は「高木」「甘木」などという地名の中に姿をとどめている可能性が極めて大きい。
・天照大御神が卑弥呼であるとすれば「高天の原」は「邪馬台国」となる。

天照大御神=卑弥呼
○実年代がはっきりしている第31代用明天皇以後の天皇は、1代の平均在位年数がだいたい10年〜14年程度。用明天皇から35代前の天照大御神が活躍していた時期は「魏志倭人伝」に記されている倭の女王卑弥呼が活躍した時代と重なり合う。
○卑弥呼ではないかとされている@神功皇后A倭姫(やまとひめ)B倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)C天照大御神の4人のうち、卑弥呼が活躍した時期と重なるのは、天照大御神だけである。
○天照大御神と卑弥呼とでは活躍の時期だけでなく、次の点も一致する。
・天照大御神も卑弥呼も女性。
・天照大御神も卑弥呼もともに宗教的権威をそなえている。
・ともに夫を持たない。
・卑弥呼には弟がいた。天照大御神にも須佐之男の命、月読の命という弟がいた。
・「古事記」による高木神(天照大御神と一緒にしばしば命令を下していたたかぎのかみ)と「魏志倭人伝」の女王卑弥呼の言葉を伝えるために出入りしている一人の男とが合致する。
・魏の皇帝は卑弥呼を「倭」の女王とし、「親魏倭王」の称号を与えた。「古事記」には、神武天皇を神倭伊波礼毘古の命(かむやまといわれびこのみこと)と呼んだように「倭」の文字がしばしばあらわれる。そこで、卑弥呼にあてはまる人物は「古事記」「日本書紀」に記されている大和朝廷の関係者の中から求めるべき。時代の合致する人物は卑弥呼。
・天照大御神は大和朝廷の皇祖神であり、卑弥呼は邪馬台国の女王。大和と邪馬台国の音が類似している。
・卑弥呼の宗女、台与(とよ)に当たる人物を我が国の資料に求めうる。
・卑弥呼の死後の争乱に当たる記述が「古事記」にある。

邪馬台国までの距離
1里を90m〜100m(例えば帯方郡〜狗邪韓国間の実際の距離は580km〜680km 1里は90m弱となる。魏志倭人伝の記述は7000余里)として計算すれば甘木市付近に行き着く。
○帯方郡から甘木市(邪馬台国)にいたる道順(1万2千余里)−九州到着後
・伊都国から陸辞で行く方法。1000km
・おもに水路で行く方法。壱岐から松浦半島、西彼杵半島、島原半島を通って有明海から筑後川をさかのぼる方法。1150km
・遠賀川をさかのぼる方法。1080km
「魏志倭人伝」の1万2千余里=1080km〜1170kmとなる。
以上を裏付ける新たな重大発見として次の2例を紹介
@平塚川添遺跡の出現
吉野ヶ里遺跡に匹敵する、あるいは、これを上回る大きさの環濠集落跡が発見され、卑弥呼時代のものとみられる「長宜子孫」銘内行花文鏡が出土した。
A卑弥呼の死の前後の2年続けての皆既日食・・・
東京大学教授であった斎藤国治らの研究により、卑弥呼が死んだとみられる年の前後の西暦247年と248年に2回続けて北九州地方で皆既日食があったことが明らかになった。・・・天照大御神が天の岩屋にかくれると天地がまっくらになったという神話と結びつく。
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