歴 史
堀川の誕生
  筑後川から水を引く前の朝倉町の耕地は、北部地帯に谷間から湧き出る小川の水をりようしてわずかな田を作るか、荷原川の水を利用した上ノ原・徳次方面にわずかの水田がひらけていたに過ぎませんでした。湿地帯はこもや水草などが生い茂り、広い原野はそのまま放置され、小松林が連なり、凹凸傾斜のはげしい砂レキ(石ころまじりの砂地)地帯でした。その間を農民は旱ばつにおののきながら、粟・稗・豆などを栽培していました。
寛文2年(1662)に旱ばつが町を襲いました。福岡藩においてもこの時代になるとますます財政が苦しくなっていました。農民もまた生活の窮乏から脱出するため開田への希望が高まってきていました。旱ばつの被害を防止して安定した生活を確保するためには、何をおいても筑後川の水を引き入れるよりほかに方法はありませんでした。
こうした時代背景の中で山田井堰や堀川は誕生し、氾濫の元凶として恐れられていた筑後川が、朝倉の農業と結びついたのです。
機能と構造 水車の機能と構造 自然の力と、人の知恵。見事なまでに巧みな、バランスの結集。
  朝倉の菱野の三連水車の揚水量は、一回転のスピード(所要時間)と柄杓数、柄杓一個の容量で決定されます。水車の回転によって柄杓に汲み上げられた水は、桶に落ちます。その水がさらにコンクリート製の升の中へ落ち、これで集められた水が農道の下を通る土管を通り、サイフォンの原理を通じて水田にふきだすようになっています。特に水車の構造上注目すべき点は、日の脚に取り付ける柄杓の角度(勾配)です。角度を深くすると落水が遅すぎて桶まで上がらず、逆に浅くすると水は桶の先端近くに落ちてしまいます。そこで生まれたのが三寸四分(19度)の勾配。この角度と水きり版によって水は無駄なく汲み上げられるようになっています。
そして水車は、松・竹・樫・杉など、良質の木材で作られているため、天然素材ならではのやさしさとぬくもりが感じられます。しかも職人さんの手作りの技が息づいていて、素朴さの中に風格さえ漂わせています。
上     車
中     車
下     車
備     考
直     径
4.76m
4.30m
3.98m
幅     員
1.50m
1.50m
1.50m
各車共通
柄  杓  数
24個・2列
22個・2列
20個・2列
日  脚  数
24本・2列
22本・2列
20本・2列
蜘 蛛 手 数
12本・2列
11本・2列
10本・2列
1 回 転 時 分
15秒
10秒
8秒
平常時計測
1 回 転 汲 水 量
386リットル
354リットル
321.6リットル
毎 分 汲 水 量
1,544リットル
2,144リットル
2,412リットル
合計6,100リットル
はじまり
水車の起源
 

水力自動回転式の揚水方法は、古くは中国から伝わったといわれています。中国では「筒車」として約350年程前から使用され、西洋では700年位前にはすでに作られていたといいます。日本でも平安・鎌倉時代には自動回転の筒車が動いていたという記録が残っていますが、一般に普及し、農業用機械として広く使用されてはいませんでした。
その頃は、桶の両端に縄を付け、二人で川の水を汲み上げる「打桶」。そして、糸繰り機にヒントを得て発明された、足踏みの人力で回転するしくみの「踏車」が使用されていました。
長年にわたる歳月の中で、工夫と改良を繰り返しながら、今の素晴らしい水車が生まれました。

西暦 日本年号 事項
1663 寛文3年 堀川できる
1722 享保7年

取入口切貫水門新設

1724 享保9年 旱ばつ
1726 享保11年 洪水
1728 享保13年 大旱ばつ
1732 享保17年 享保大ききん・稲凶作
1736 元文17年 筑後川大洪水
1754 宝歴4年 大風
1758 宝歴8年 大雨洪水
1762 宝歴12年 旱ばつ根付不能
1762 宝歴12年 大風
1764 明和1年 突分より堀川南線新設
1768 明和5年 旱ばつ
1770 明和7年 大旱ばつ
1776 安永5年 大洪水
1780 安永9年 旱ばつ
1782〜1783 天明2〜3年 天明の大ききん
1785 天明5年 旱ばつ
1786 天明6年 田植頃旱ばつ
1789 寛政1年 水車一挺増設三連水車誕生
1790 寛政2年 古賀百工山田石堰大改修
歴史背景

人々の夢と希望。それが、水車をつくった原動力。
人々の暮らしと共に育まれ、暮らしのなかで生きてきた水車。それは人々の夢と希望の象徴でした。

豊かな実りある水田にしたい・・・。試行錯誤と改良を重ねて、夢は回る水車となって実現したのです。

 

長い間筑後川と農業を結びつけていた堀川用水も、年を経るに従って、絶え間ない洪水などで取入口に土砂が蓄積し、用水がたりなくなりました。せっかく開田した田さえも旱ばつの害を受けるようになり、享保7年(1722)藩役人の判断により取入口変更の工事が行われることになりました。恵蘇八幡宮の前にあった井手口を埋め、現在地点(水神社境内の地下)の岩を切り貫いて、開閉自在の水門が作られました。
さらに宝暦10年(1760)11月中旬から明和元年(1764)に完成するまで約5ケ年の歳月を費やして、新堀川掘削の工事を完成し、寛政2年(1790)には、従来の突堤式の大川井手を総石畳の石堰に大改修しました。

  堀川の恩人
  堀川の恩人といわれる古賀百工は、新堀川と山田井堰を作った人物です。工事にとりかかった時には、70歳になっており、老体に鞭打って、養子の十次郎と共に寝食を忘れ工事の指揮に当たったと伝えられています。
大変苦労したのは、最も抵抗の強い中の舟通しから川の中心にかけての設計です。筑紫次郎の暴れん坊に絶え得るだけの石畳の築造に精力を傾けました。
寛政10年(1798)5月24日、81歳で永眠、お墓は大庭上楽の墓地にあって「釈秀円」とあります。
彼の大川井手改修の悲願は山田井堰となって、いまなお水しぶきをあげています。


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